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湊が足を止めた。
廊下の突き当たり近くにある和室だった。
智恵子は、その襖を見ただけで少し緊張した。
これまで通ってきた場所とは、明らかに空気が違う。
家そのものは普通だった。
玄関も、廊下も、待合室も。
ところが、この部屋の前まで来ると、かすかに香の匂いがする。
線香とは違う。
もっと甘く、けれど重たい香り。
嫌な匂いではない。
ただ、それまでの生活感のある家の中では明らかに浮いていた。
湊が襖の前で一度振り返る。
「それでは、ご案内します」
智恵子は小さく頷いた。
湊が襖を開けた。
途端に、香の匂いが少し濃くなる。
部屋の奥に、一人の男が座っていた。
智恵子は思わず足を止めた。
……怪しい。
頭の中に浮かんだ言葉は、それだった。
かなり怪しい。
八畳ほどの和室。
窓には薄い簾が掛けられていて、昼間にもかかわらず室内は少し暗い。
卓上には水晶のような透明な石。
小さな香炉。
黒い布の上には数珠や見慣れない石がいくつか並んでいる。
壁には墨で何かが書かれた掛け軸。
その隣には、小さな仏像らしきものまで置かれていた。
そして、その中心にいる男。
肩よりもずっと長い黒髪。
黒を基調にした、和装とも洋装とも言い切れない服。
片手には大粒の数珠。
姿勢を崩すことなく、静かに座っている。
動画で見た姿そのままだった。
いや。
実際に目の前にすると、動画で見るよりもさらに胡散臭い。
智恵子は失礼だと思いながらも、そう感じずにはいられなかった。
先ほどまでの篠崎湊があまりに普通だったせいもある。
きちんとしたスーツ。
爽やかな青年。
普通の待合室。
柴犬。
三毛猫。
そこから突然、この部屋である。
同じ家の中とは思えない。
「森川さんをお連れしました」
湊が声を掛ける。
男はゆっくりと顔を上げた。
「ありがとうございます」
低い声だった。
動画で聞いた声。
よく通るが、大きくはない。
静かで、妙に落ち着いている。
男の視線が智恵子へ向く。
「森川さんですね」
「……はい」
「どうぞ。こちらへ」
智恵子は促されるまま部屋へ入った。
畳の上には低い座卓があり、その向かい側に座布団が置かれている。
椅子ではないのか、と一瞬思ったが、横を見ると低い座椅子も用意されていた。
「正座はなさらなくて大丈夫ですよ」
男が言った。
「楽な姿勢で座ってください」
「あ、はい。ありがとうございます」
智恵子は座椅子へ腰を下ろした。
湊は少し離れた場所に用意されていた椅子へ座る。
手元にはタブレット端末。
どうやら記録を取るらしい。
男は座卓を挟んで智恵子と向かい合った。
近くで見ると、思っていた以上に若かった。
動画でも若いとは思っていた。
しかし画面越しでは、長い黒髪や衣装のせいで年齢が分かりにくい。
実際に見ると、三十代にも届いていないように見える。
二十代。
せいぜい三十前後。
智恵子は少し戸惑った。
もっと年配の人を想像していたわけではない。
それでも「霊導師」という肩書きから、何となく人生経験の長い人物を想像していた。
それが、自分の娘とそれほど年齢の変わらない男だった。
さらに近くで見ると、整った顔をしている。
長い前髪が頬に掛かり、室内が暗いせいではっきりとは分からないが、鼻筋は細く、輪郭もすっきりしている。
派手な装いをしているのに、顔立ち自体は妙に静かだった。
ただ、そのせいで余計に怪しく見える。
これほど整った若い男が、黒い長髪に数珠を持って暗い和室に座っている。
演出にしか見えない。
智恵子は自分が騙されに来たような気分になり、少し落ち着かなくなった。
男はそんな智恵子の内心を気にする様子もなく、軽く頭を下げた。
「改めまして。玲玄と申します」
「森川智恵子です」
「本日はお越しいただいてありがとうございます」
言葉遣いは丁寧だった。
「篠崎から、事前説明は受けていただきましたか?」
「はい」
「ありがとうございます」
玲玄は一度、湊を見る。
湊が頷いた。
「予約時には、亡くなられたご家族についてのご相談、とだけ伺っています」
「はい」
智恵子は膝の上で両手を握った。
「それ以外の詳しい事情については、私は聞いていません」
やはり本当に知らないらしい。
もっとも、そう言っているだけかもしれない。
予約時に入力した自分の名前から、インターネットで調べれば何か分かる可能性もある。
娘の事故が新聞に載っていたかもしれない。
SNSを探せば出てくるかもしれない。
智恵子はそこまで考え、自分でも驚いた。
疑うつもりで来たわけではない。
けれど、簡単に信じるつもりもなかった。
娘を亡くしてから、いろいろな言葉を掛けられた。
「きっと娘さんは天国で見守っている」
「娘さんもお母さんが悲しむことを望んでいない」
皆、善意だった。
それでも智恵子には分からなかった。
どうしてそんなことが分かるのだろう。
真琴本人に聞いたのか。
だからこそ、この男にも同じことを思う。
本当に分かるのか。
玲玄は座卓の上に置いていた数珠へ手を触れた。
何か始めるのかと思い、智恵子は身構える。
しかし、ただ位置を少し直しただけだった。
「先に一つだけお伝えしておきます」
「はい」
「お話を伺った結果、霊的な問題ではないと判断する場合があります」
智恵子は瞬きをした。
「霊じゃない、ということですか?」
「はい」
玲玄は静かに頷く。
「体調や心理状態、建物の問題、周囲の人間関係などが原因になっていることもあります。その場合は、そのままお伝えします」
動画で聞いた通りだ。
「また、亡くなられた方が必ずここにいらっしゃるとは限りません」
その言葉に、智恵子の胸が少し痛んだ。
「……見えないこともあるんですか?」
「あります」
玲玄は迷わず答えた。
「私は亡くなった方を呼び出しているわけではありません。こちらに残っている方がいれば、見えることがあります。いなければ見えません」
「そうなんですね……」
「ですから、今日必ずご希望の答えをお伝えできるとは限りません」
淡々としている。
自信満々に「必ず会わせます」と言われるより信用できる気もする。
反対に、逃げ道を作っているだけにも聞こえる。
智恵子自身、どう受け取ればいいのか分からない。
玲玄が続ける。
「それでもよろしければ、お話を聞かせてください」
智恵子は数秒黙った。
ここまで来た。
帰るためではない。
「……お願いします」
「分かりました」
玲玄が僅かに頭を下げる。
香炉から細い煙が立ち上っていた。
部屋の隅に置かれた時計が、小さく音を刻んでいる。
カチ。
カチ。
カチ。
その音がやけに大きく感じられた。
智恵子は息を整える。
どこから話せばいいのだろう。
真琴が死んだこと。
事故だったこと。
最近声を聞くこと。
圭吾という男のこと。
何から話せば、この人は分かるのだろう。
玲玄は急かさない。
黙ったまま智恵子を待っている。
その顔からは、何を考えているのかほとんど読み取れない。
智恵子は改めて男を見た。
本当にこの人で大丈夫なのだろうか。
長い黒髪。
数珠。
水晶。
香。
見るからに霊能者らしい道具。
きちんとしたWebサイトとの落差が激しすぎる。
もしかすると、サイトを作ったのは先ほどの篠崎なのではないか。
そんな考えまで浮かぶ。
智恵子は心の中で小さく苦笑した。
今はそんなことを考えている場合ではない。
「今日は……」
声が少し震えた。
玲玄が静かにこちらを見る。
「亡くなった家族についてのご相談ですね」
「はい」
それくらいは予約フォームに書いた。
知っていて当然だ。
智恵子は自分にそう言い聞かせた。
まだ何も起きていない。
この男が本物だという証拠は、何一つない。
智恵子は膝の上で握った手に、もう一度力を込めた。
「実は……」
ようやく言葉を続けようとした。
「それでは、こちらへ」湊が襖を開けた。智恵子は立ち上がり、玲玄へ頭を下げる。「今日は、ありがとうございました」「いえ」玲玄も軽く頭を下げた。「こちらで確認できることが分かりましたら、ご連絡します」「お願いします」智恵子はそう答えたものの、すぐには部屋を出られなかった。どうしても気になる。振り返る。自分が座っていた場所の後ろ。玲玄が何度も見ていたあたり。もちろん何も見えない。「……真琴は」声が漏れた。玲玄が顔を上げる。「はい」「私が帰ったら、どうなるんですか?」自分でも妙な質問だと思った。どうなる。どこへ行く。そんなこと、生きている人間についてなら聞く必要もない。けれど今、自分の目には見えない娘がこの部屋にいるという。自分だけ帰っていいのだろうか。真琴をここへ置いて帰るような気がして、急に不安になった。「真琴も、一緒に帰れるんでしょうか」玲玄の視線が智恵子の後ろへ移る。少しの間。それから、「今のところ、森川さんについて行くと思います」「今のところ?」言葉が引っかかった。玲玄は穏やかに説明する。「亡くなった方が、ずっと一か所にいるとは限りません」「そうなんですか」「はい。亡くなった場所にいる方もいますし、人についている方もいます。物の近くから離れない方もいます」智恵子は聞きながら、また後ろへ目を向けた。「真琴は、私についてるんですか?」「今は、そう見えます」「じゃあ……帰ったら、家にも?」「おそらく」胸の奥が少しだけ緩んだ。怖いと思うべきなのかもしれない。幽霊なのだから。それでも真琴なら、怖くはなかった。「私が話しかけたら、聞こえてるんでしょうか」「聞こえている可能性は高いです」「返事が聞こえなくても?」「はい」智恵子は唇を噛んだ。それなら。この半年間も。仏壇の前で話したこと。写真に向かって謝ったこと。今日あったことを何となく口にしたこと。あれも全部、聞いていたのだろうか。「先生」「はい」「真琴は……今、何か言ってます?」玲玄は一度、智恵子の背後を見た。数秒。「今は何も」「そうですか」少し残念だった。けれど同時に、ほっともした。これ以上何かを聞いたら、また立っていられなくなるような気もする。「また、真琴と話せますか?」「真琴さんがいれ
「……お願いします」智恵子がそう答えると、玲玄は小さく頷いた。「では、いくつか確認させてください」「はい」玲玄の声音は変わらない。真琴の霊がいるという話から一転して、ごく普通の相談のような言葉だった。湊がタブレットを手に取る。「答えにくいことは、無理に答えていただかなくても大丈夫です」玲玄が付け加えた。「分からないことは、分からないで構いません」智恵子は頷いた。先ほど、自分が娘のことを何も知らなかったように感じたのを察したのだろうか。そう思ったが、玲玄の顔からは分からない。「まず、榊原圭吾さんについて、森川さんがご存じのことを教えてください」「私が知ってること……」智恵子は記憶をたどった。「年は、真琴より五つ上やったと思います」「今なら三十二歳くらいですね」「はい。そのくらいです」「お仕事は?」「会社員とは聞いてました。でも、詳しくは……」会社の名前までは知らない。どんな仕事をしているのかも、真琴から詳しく聞いた覚えはなかった。玲玄はそれ以上追及しなかった。「お住まいは?」「大阪市内やったと思います」「住所は?」「分かりました」また、その言葉だった。分からないことを答えるたび、責められるのではないかと身構えてしまう。だが玲玄は何も言わない。湊も淡々と記録している。「真琴さんと交際を始めたのが、およそ三年前」「はい」「別れたのが、亡くなる半年ほど前」「……たぶん」智恵子は少し迷った。「正確な時期は分からないです」「構いません」玲玄は続けた。「真琴さんが亡くなられたのは?」「三月十七日です」日付だけは、考えるまでもなく出てきた。忘れるはずがない。「時間は分かりますか?」「見つかったのは、次の日の朝です」智恵子は指を握り合わせた。「警察の人の話では、亡くなったのは夜の十時から十二時くらいじゃないかって」「三月十七日の午後十時から、十八日の午前零時頃」湊が確認する。「はい」「場所は?」智恵子が川の名前と、おおよその場所を伝える。湊の指が動いた。玲玄はその間、何も言わず聞いていた。「真琴さんは、その日どこへ行くと?」「それが……」智恵子は首を振った。「何も聞いてないんです」その日は仕事だった。真琴はいつも通り朝に家を出た。「仕事が終わったあと、そのまま帰
おミツが再び羽虫を追い始めたころ、智恵子の意識は自然と圭吾へ戻っていた。ほんの少しだけ緩んだ胸が、また重くなる。真琴はここにいる。玲玄には、その姿が見えている。声も聞こえている。そして真琴は、はっきり言った。圭吾に殺された。なら。「先生」智恵子はハンカチを握り直した。「はい」「私……警察に行った方がいいんでしょうか」玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の後ろへ一度視線を向け、それからこちらを見る。「今の状態で行っても、難しいでしょうね」「難しい?」「はい」思っていた答えではなかった。智恵子は眉を寄せる。「でも、真琴が圭吾に殺されたって」「はい」「先生にもそう言ったんですよね?」「言いました」「だったら……」言葉が続かない。何が問題なのか分からなかった。玲玄は真琴が見えると言った。実際、誰も教えていない娘の名前を知っていた。服装まで当てた。圭吾の名前も、智恵子が口にする前に知っていた。その真琴本人が、殺されたと言っている。それなのに。玲玄はまるで、まだ何も始まっていないかのような顔をしていた。「森川さん」声は穏やかだった。「はい」「警察へ行って、何と説明されますか?」「何って……」「娘さんが元交際相手に殺された、と?」「はい」「その根拠は?」智恵子は言葉に詰まった。「真琴が……」そこまで言って、自分でも気づいた。玲玄は責めるような顔をしない。ただ続きを待っている。智恵子は小さな声で言った。「真琴の霊が、そう言ってるって……」「そうですね」玲玄が頷く。「警察に『亡くなった娘の霊が、元恋人に殺されたと言っています』と話して、捜査してもらえると思いますか?」智恵子は何も言えなかった。少し考えれば分かることだった。警察へ行く。受付で事情を話す。娘の幽霊が犯人を教えてくれました。そんな話をしたら、どう思われるだろう。まともに取り合ってもらえるとは思えない。場合によっては、自分の精神状態を心配されるかもしれない。「でも……」それでも納得できなかった。「本当に真琴が言ってるんですよね?」「はい」「先生には聞こえてる」「聞こえています」「だったら、何か……」玲玄は静かに言った。「霊が何を言ったかと、現実に何があったかは別です」智恵子は玲玄を見つめた。
しばらく、誰も口を開かなかった。智恵子はハンカチを膝の上へ置いた。真琴がそこにいる。そう思うだけで、何度も後ろを振り返りたくなる。けれど、見ても何も見えないことはもう分かっていた。代わりに玲玄を見る。玲玄は先ほどと変わらず、静かな顔をしている。真琴の声が聞こえた。そう言った。それなのに、娘の話をそのまま事実とは受け取らない。そのことが、智恵子にはまだ理解できなかった。圭吾に殺された。真琴はそう言っているのに。そのとき。カリ。小さな音がした。智恵子が顔を上げる。カリカリ。今度ははっきり聞こえた。襖の向こうだ。湊がそちらを見る。また、カリカリ。少し間を置いて、「にゃあ」智恵子は瞬きをした。湊が困ったような顔をする。「来ましたね」「猫ですか?」智恵子が尋ねると、湊が頷いた。「たぶん」襖の向こうから、もう一度。「にゃあ」今度は少し長い。玲玄が小さく息を吐いた。「開けてやってください」「いいんですか?」「開けへんかったら、ずっとやります」一瞬。智恵子は玲玄を見た。今の言い方。それまでの丁寧な標準語とは、ほんの少し違った気がした。だが玲玄は何事もなかったように座っている。湊も特に反応しない。「分かりました」湊が立ち上がり、襖を少し開けた。すぐに、小さな頭が隙間から入ってくる。三毛猫だった。白を基調に、黒と茶の毛が不規則に混じっている。顔を覗かせたかと思うと、遠慮する様子もなくするりと部屋へ入ってきた。「おミツ」玲玄が呼ぶ。猫は反応しない。そのまま真っ直ぐ畳の上を歩いていく。「お前、今仕事中やぞ」玲玄が言った。やはり少しだけ、先ほどまでと口調が違う。おミツは当然のように無視した。智恵子は思わず口元を緩めた。先ほどまで、殺された。警察。圭吾。そんな言葉ばかりが飛び交っていた部屋へ、急に猫が入ってきた。しかも、霊能者の言うことなどまるで聞いていない。おミツは座卓の横を通り過ぎる。玲玄が手を伸ばしかけたが、猫はその直前でするりと方向を変えた。湊の足元へ行く。「……お前な」玲玄が小さく呟く。智恵子は、また少しだけ笑った。その声に気づいたのか、玲玄がこちらを見る。「すみません。邪魔でしたら出しますので」「いえ」智恵子は首を振った。「大丈夫で
「本人に、もう一度聞いてみます」玲玄はそう言うと、智恵子から視線を外した。向いた先は、やはり智恵子の後ろだった。誰もいないはずの場所。少なくとも、智恵子には何も見えない。玲玄はしばらく黙っている。まるで、そこに立っている誰かと向き合っているようだった。智恵子は息を呑んだ。「真琴さん」玲玄が静かに呼びかける。それだけで、智恵子の胸が大きく鳴った。「確認させてください」玲玄の目は、智恵子の後ろから動かない。「圭吾さんが、あなたを殺したんですか?」沈黙。時計の音だけが聞こえる。カチ。カチ。カチ。智恵子には何も聞こえなかった。思わず振り返る。襖。畳。壁際の棚。そこに誰かがいるようには見えない。「真琴……?」呼んでも返事はなかった。けれど玲玄は、まだ同じ場所を見ている。その顔つきが、ほんの少しだけ変わった。何かを聞いた。智恵子には、そう見えた。玲玄が僅かに首を傾ける。しばらくして、「……そうですか」と答えた。智恵子はたまらず身を乗り出した。「先生」玲玄がこちらを見る。「真琴は……何て?」玲玄はすぐには答えなかった。ほんの数秒。それから、静かに告げる。「圭吾さんに殺された、と言っています」智恵子の頭の中が真っ白になった。「……やっぱり」声にならないような声が漏れた。胸の奥に押し込めていたものが、一気に崩れる。「やっぱり真琴やったんや……」両手で口を覆った。涙が溢れた。「私がおかしくなったんちゃうかった……」あの声は幻聴ではなかった。自分が娘を亡くした悲しみでおかしくなったわけではない。真琴だった。本当に真琴が自分へ訴えていた。そう思った瞬間、安心とはまるで違う感情が押し寄せてきた。恐怖。後悔。そして怒り。智恵子は振り返った。何も見えない。それでも、その場所へ向かって呼びかけた。「真琴」声が震える。「真琴、ごめんな」返事はない。「お母さん、事故やと思ってた」涙で視界がぼやける。「警察の人も事故やって言うし……お酒飲んでたから、足滑らせたんやろって」自分に言い聞かせてきた言葉だった。事故だった。誰にもどうしようもなかった。そう思うしかなかった。「ごめんな、真琴」ハンカチで目を押さえる。「信じてあげられへんかった」玲玄は黙っていた。
「娘が……真琴が、そこにいるんですか?」智恵子の声は震えていた。玲玄はすぐには答えなかった。智恵子の顔ではなく、その肩越しへ視線を向ける。そこに誰かが立っている。やはり、そうとしか思えない目だった。数秒して、玲玄が口を開いた。「今、森川さんの後ろに若い女性がいます」智恵子は息を呑んだ。振り返りそうになって、やめる。先ほども見た。何もいなかった。「若い……女性?」「はい」「それが……真琴なんですか?」「まだ、私からは断定しません」玲玄の答えは慎重だった。「ただ、二十代くらいの女性です」智恵子の指が、膝の上で強く絡み合う。玲玄は視線を後ろへ向けたまま続けた。「髪は肩より少し下くらいまでありますね。真っ直ぐではなくて、少し癖があります」智恵子の喉が動いた。真琴は、生まれつき少し髪に癖があった。本人はそれを嫌って、よく美容院で縮毛矯正をしていた。亡くなる少し前は、それをやめていた。「服は……白っぽい上着です。胸元に小さな……」玲玄が少し目を細める。「花でしょうか。刺繍があります」智恵子が口元を押さえた。「それ……」声が出ない。「それ、真琴です」玲玄が智恵子を見る。「そうですか」「その服、持ってました」言葉が止まらなくなる。「白いカーディガンで、胸のところに小さい花があって……あの子、よく着てたんです。派手なの嫌いやったから」智恵子の目から、また涙がこぼれた。「先生、それ真琴です」玲玄は「やはり」とも言わなかった。ただ小さく頷いただけだった。そして、もう一度その背後を見る。「……そうですか」まただ。誰かと話している。智恵子には何も聞こえない。けれど、玲玄には何かが聞こえている。そう思うと、胸の奥がざわついた。怖い。けれど、それ以上に。会いたい。「真琴は……何か言ってますか?」智恵子が尋ねる。玲玄は少し黙った。背後を見る。何かを待っているようだった。やがて、「いくつか」と答えた。「何て?」思わず身を乗り出す。しかし玲玄は、すぐには伝えなかった。「順番に確認します」「でも……」「森川さん」声は穏やかだった。それでも、言葉を遮るだけの強さがあった。「私に見えているものと、森川さんが知っていることを、一つずつ合わせていきましょう」「……はい」智恵